人間のタンパク質の9割は、今の顕微鏡ではほとんど見えない。
UCバークレー大学の物理学者チームが、クライオ電子顕微鏡(cryo-EM)にレーザー位相板を組み込む技術を発表しました。光学顕微鏡で1953年のノーベル賞を受けた位相差法を、電子顕微鏡に初めて実用化した成果です。2026年6月11日付の学術誌『Science』に掲載されています。
この記事でわかること
- 従来のcryo-EMが抱えていた「小さすぎて映らない」問題の中身
- レーザー位相板がコントラストを上げる仕組み
- 創薬や細胞内観察への波及と、今後の展望
cryo-EMの限界は「サイズ」にあった
cryo-EMは、タンパク質などの生体分子を極低温で凍結し、電子ビームで撮影して立体構造を解明する手法です。2017年のノーベル化学賞で注目を集め、創薬の構造解析でも欠かせない技術になりました。
ただし現行機器では、70キロダルトン(kDa)未満の小さなタンパク質の画像化がほぼ不可能です。ヒトのタンパク質の約90%がこのサイズ帯にあり、構造が分からない分子が大量に残っています。電子ビームを弱めると標本の損傷は抑えられますが、散乱信号が弱くなり、ノイズに埋もれてしまいます。
位相差法を電子顕微鏡に持ち込む
1930年、オランダの物理学者フリツ・ツェルニケは、生体試料を通った光の「位相」のずれを可視化する位相差法を考案しました。散乱光と非散乱光の位相を90度ずらすと、振幅の差が小さくてもコントラストが上がります。光学顕微鏡の画質を一変させた発見です。
電子顕微鏡でも同じ発想が試みられてきました。しかし従来の位相板は電子ビームを弱めたり、画像を不安定にしたり、解像度を落としたりする欠点があり、実用化は長年停滞していました。
75キロワットのレーザーが電子の位相をずらす
2010年、UCバークレーのホルガー・ミュラー教授とロバート・グレイザー教授は、強力なレーザーで電子ビームの位相を変える案を論文で示しました。レーザーなら電子ビームの強度を落とさずに位相シフトが可能です。
その後15年かけて装置を完成させました。レーザーを球面ミラーで閉じ込め、1万回以上反射させて集光する方式です。数ミクロンに集めた連続波レーザーの出力は75キロワットに達し、溶接用レーザーや軍用レーザーを上回る照度になります。位相板全体の光学キャビティは幅4インチ未満で、高さ約4.3メートルの顕微鏡内部に収まります。
ミュラー教授は、このレーザー位相板を搭載した顕微鏡に「Theia」と名付けました。サーモフィッシャーサイエンティフィック製のKrios型cryo-EMをカスタマイズし、2025年に稼働を開始しています。
ヘモグロビンまで解像度が改善
論文では6種類の試料で効果を検証しました。筋肉のタンパク質アルドラーゼは従来機でも比較的撮りやすい分子です。一方、血中の酸素運搬タンパク質ヘモグロビンは現行cryo-EMの下限付近に位置します。
レーザー位相板をオンにすると、両方の構造解像度が向上しました。特に小さなヘモグロビンでの改善が顕著です。ミュラー教授は「大きなタンパク質で試料の状態が良ければ位相板は不要だが、小さなタンパク質や不良試料ではレーザーが最善の選択になる」と述べています。
現時点では50 kDa程度までの画像化が可能です。ヘモグロビンよりさらに小さい分子にも届き始めています。今後は17 kDa(ミオグロビン相当)まで引き下げることを目指しており、集束電子ビームとの組み合わせで信号対雑音比がさらに2倍になる見込みです。
細胞内の「見えない世界」にも波及する
単一粒子解析だけでなく、cryo-ET(クライオ電子断層撮影)への応用も期待されています。cryo-ETは分子を溶液中の孤立状態ではなく、細胞内の自然な環境で3次元的に観察する手法です。CTスキャンのように複数角度から撮影し、立体像を組み立てます。
細胞内は分子が密集しており、従来の低コントラストでは核やミトコンドリアなどの構造を判別しにくい状態でした。バイオハブのブリジット・キャラガー氏は「森の中の一本の木の葉を探すような作業だ」と形容し、レーザー位相板がコントラストの飛躍的向上をもたらすと期待を示しています。
バイオハブはミュラー教授の研究に資金提供し、レッドウッドシティの施設では2本のレーザーを直交させるデュアルレーザー方式の開発も進めています。各レーザーの出力を半分に抑えることで、部品の耐久性と像の収差を改善します。サーモフィッシャーサイエンティフィックとも連携し、将来的には他の研究機関向けに簡素化した装置の提供を目指しています。
バイオハブのステファニ・オッテ氏は「生きた細胞の中で分子マシンがどう動くかを初めて文脈付きで見られる。かつて見えなかったものが見えるようになり、疾患の理解の仕方そのものが変わる」とコメントしています。結晶化できないタンパク質の構造解明や、標的本の構造に基づく創薬設計にも新たな道が開けます。
