米国防総省で10年間、国家安全保障の長期戦略を描いてきた人物が、AI企業Anthropicに加わりました。

この記事でわかること

  • 誰がAnthropicに参画し、何を担うのか
  • Office of Net Assessment(ONA)が果たしてきた役割
  • Anthropicと米政府の現在の関係
  • AIが既存の制度に与えるリスクの本質

元国防戦略トップがAnthropicの「戦略家」に就任

2026年5月1日、Anthropicはジェームズ・ベイカー(James Baker)氏を「strategist-in-residence(常駐戦略家)」として迎え入れたと発表しました。ベイカー氏は米国防総省のOffice of Net Assessment(ONA)を2015年から2025年まで率いた人物です。

Anthropicでの役割は、AIが米国の制度や対中競争にどのような影響を与えるかを分析することです。技術開発そのものではなく、AIが社会構造に及ぼす長期的な変化を評価する立場になります。

Office of Net Assessmentとは何か

ONAは1973年にニクソン政権下で設立された国防総省の戦略分析機関です。「ペンタゴンのシンクタンク」と呼ばれ、歴代の国防長官に対して技術・経済・社会のトレンドが安全保障に与える長期的影響を助言してきました。

同機関はデータ駆動の「システム・オブ・システムズ」アプローチを採用し、情報技術が戦争の速度と精度を劇的に高める未来を予測しました。2016年には、ロボティクスとAIの「カンブリア爆発」が高額兵器の優位性を低下させるという報告書をまとめています。この予測は、ウクライナで安価なドローンがロシアの高額装備を破壊している現状と一致します。

2025年3月、トランプ政権はONAを閉鎖しました。同年10月に縮小版が復活しましたが、ベイカー氏はすでに退任しています。

Anthropicと米政府の対立構図

Anthropicは2026年3月、ホワイトハウスから「サプライチェーンリスク」に指定されました。米国企業がこの指定を受けるのは初めてです。きっかけは、Anthropicが自社のAIモデルClaudeを大規模な国内監視や完全自律型兵器に使用することを拒否したことでした。

この指定により、連邦政府機関はAnthropicの技術を段階的に排除するよう命じられました。一方で2026年4月末には、ホワイトハウスが方針転換を模索し始めています。大統領首席補佐官のスージー・ワイルズ氏とAnthropicのダリオ・アモデイCEOが会談を行い、連邦利用の再開に向けた大統領令の草案作成が進んでいると報じられています。

Anthropicは4月、新モデル「Mythos」を一部の連邦機関と企業に限定公開し、サイバー脆弱性の発見を支援する方針を示しました。全面対立ではなく、用途を限定した協力関係を築こうとしている姿勢が見えます。

「再帰的自己改善」と制度の脆弱性

ベイカー氏はインタビューで、AIの安全保障上の影響は軍事にとどまらないと語っています。同氏が注目するのは「再帰的自己改善(recursive self-improvement)」——AIシステムが開発者の予想を超える速度で自らを改良し続ける能力です。

同氏によれば、最大のリスクは特定の兵器や攻撃ではなく、戦時・平時を問わず既存の制度が長期的に機能しなくなることです。議会を含む冷戦期に設計された制度が、AIの変化速度に適応できていない現状を「文明レベルの課題」と表現しています。

この問題意識こそが、ベイカー氏がAI企業であるAnthropicを選んだ理由です。国防総省の外側から、制度の脆弱性を分析し、対応策を描く試みと言えます。

AI企業が安全保障人材を求める理由

AI企業が安全保障の専門家を迎える動きは、技術そのものの進化だけでは社会実装が進まないことの裏返しです。いくら優れたモデルを開発しても、政府機関や社会制度がその影響を正しく理解できなければ、導入は停滞するか誤った形で進みます。

Anthropicにとってベイカー氏の参画は、技術と制度の橋渡しを担う人材確保です。対米政府関係の改善だけでなく、AIの長期的リスクを制度設計の視点で分析する能力を社内に取り込む戦略的な動きと読めます。

AI開発競争が加速する中で、技術力に加えて「制度を動かす力」を持てるかどうかが、AI企業の次の差別化要因になりつつあります。